Rin_Mikageのブログ

気ままに。思考は自由に。

10年の執行猶予

東野圭吾ガリレオシリーズ「聖女の救済」の話をご存知だろうか。ドラマ版では夫と致命的な溝があった妻が、1年間の執行猶予を経て夫を殺害する物語だ。

(妻が水道管に毒を仕込み、1年間誰にも触らせず、夫の考え方が1年前と変わっていないことを確認。その後、妻が家を開けている間に夫が水道水を使うことで毒を摂取してしまう流れだったと思う。)妻が湯川先生の同級生ということもあり、湯川先生は事件に巻き込まれていく。(ような話だった気がする)

 

私がこの話を知ったのは高校生くらいの時だった。その時はまだ理解が及ばなかったけれど、1年間妻がヘイトを溜めすぎることなく適応して復讐の機会を伺っていたことになる。

このコントロール能力には目を見張った。静かな怒りを持った人間の復讐方法は怖い。

 

このページのタイトル『10年の執行猶予』は「聖女の救済」に登場する「妻」になぞらえたものだ。私にも許せないものがある。両親だ。彼らが私にしたことは

・面前DV(配偶者の悪口、愚痴を言う)

・私の発達特性を認めないなど、不適切な養育をしたこと。

・適切な相談機関を利用しなかったこと。

・自分の人生を私に押し付けたこと。

・私が入院(後述)しても話し合うことはなく、問題に向き合わなかったこと。

 

最初に触れた面前DV2004年の時点で心理的虐待に含まれるようになった。この時点で私は小学生、つまり児童であった。

 

その結果、私の身に降りかかったものは以下である。

・小4あたりから、食事と引き換えに酔った母の愚痴聞き役になり逃れられない。高2まで続いた。

・小5には自分で人権SOSレターを書き大人に相談するも、支援に繋がらず。

(この時点で両親が離婚するのではと不安に思い、施設に行きたいと思うようになる)

11歳の誕生日を母の暴言によってぶっ壊される。

・中1で親と距離を置くため、精神科に入院する。

・中2で数学に出会い、思考の避難場所を確保する。

・この記事を書いているいま、大学院で数学を専攻している。コロナ禍による環境の変化に適応できず、適応障害を発症する。同時に発達障害グレーゾーンと告げられる。現在休学中。

 

5の時点でSOSレターを書いていた頃には、親を頼れないと判断した。今の私が判断しても「それで正解だ。」と伝えたい。どんなに愛情があってもすれ違ってしまう親子はいるが、私の家はそれ以前だ。私の家は、私が年齢に関係なく大人として振る舞うことで成り立つ家族だ。私が我慢していない今、家族は冷め切ったシェアハウスと化している。

それぞれが自由に過ごしていると言えば聞こえはいいが、実際は無関心が蔓延る呪いの家だ。無関心、過干渉、民族差別、容姿による差別、両親の持つ幻想やユートピアの保持と妨害するモノへの脅迫、無知、無理解、歪んだ愛情の闇鍋のような家。

この環境が、適切な養育環境だと言えるだろうか?

 

この環境で育った私はいくつかの自分を使い分けた。一つは両親に服従する自分。二つ目は本来の自分。三つ目はマイナスの感情たちを持つ自分。四つ目はこれらを理性的にコントロールする自分だ。

 

4人の自分を使い分けて生き残るサバイバルは、過酷だった。思うように生きられないのは当然だった。親によって、素の自分を半分くらい削られているのだ。本来の力も出せやしない。合理的配慮もなく、全部自分で切り開かなくてはいけない。それを(記憶している限り)10歳から強いられ、大人たちはこの事実に気がつかなかった。私が主張できる力は親によって削り取られていた。親を離れたら自分が生き行けないことくらい、子どもの私でも容易に理解できたからだ。

 

こんな人生を終わりにしたいと願うのは、悲願だった。そんな私に「死」は甘い顔をして現れた。『全てから解放される』魔力に抗えないのは致し方ない。この苦痛も、悲しみも、絶望も全て死のベールの前に置いていけるのなら、誰だって死を選ぶ。当時の自分はそう思った。大人になった今でもそう思う。無力なことは子供でも理解できるのだ。それを利用した大人たちの卑怯な行いは見つけてもらえぬまま、私は20歳になった。

 

自分の人生が生きづらいと感じたのはちょうどその頃だった。それまでの間、私に不当な扱いを強いたのは事実だった。20歳を超えても扱いは変わらなかった。この記事を書いている現在まで、これらの出来事に対する謝罪や扱いの変更はない。そんなことはなかったものとして、生活は続いている。

 

最低でも10年の執行猶予だ。最高値はこれからも更新され続けるだろう。

だから私は、両親に別れを告げようと思う。あの2人を視界に入れない生活をしようと思う。もう二度と自分の心を殺さないために。

 

経済的自立を図ろう。自分の足で人生を生きていくために。

精神的自立を図ろう。自分の心を育てるために。適切に人を頼るために。

健全な愛を受け取り、与える人間になるために。

 

適切な相談機関を頼ろう。自分の居場所を確保するために。

 

私が私であるために、今をsurviveするのだ。