この記事だけは、目次をつけずに書いていこうと思う。
私は発達障害の当事者学生でありながら、ずっと普通の人のふりをして生きてきた。それは私なりの処世術だったし、周りの発達障害じゃない人たちからのウケはよかったほうだと思う。まじめな人に見えるから。いろんなことを知っていて、ちょっと抜けてる。それがチャームポイントみたいな。一見してなんも困っていない人。礼儀作法はできている。すごく誠実に、時に優しさで人を包む。何でも許してしまうくらい、優しすぎるくらいの人。
「一体これのどこが発達障害なの?」と思われても無理ないレベルだった。実際女子大に通っていた時の友人からは「まったくそうは見えないよ。」と言われてしまうくらいだった。
だから、この記事では私がどんな努力をしたのかを思い出しながら書いていこうと思う。ただの努力自慢に読めるなら、それはうわべだけの理解をしている証だと思う。読むコツとしては、私のことを人間ではなく、【そこそこ処理できるコンピュータ】だと思って読んでみてほしい。
1.女性であること
男性と女性。体の性別が原因でおきる弊害。生理や身だしなみ、礼儀作法。女性というだけで付きまとってくるものたちは発達障害の人には理解しにくい。明確なルールがあるわけじゃない分、いくつものパターンを覚えておいてその場に合わせて出す機転の良さが求められる。
「○○さん気が利くね!」なんて言われてもね、そりゃそうだとしか思えないのよ。
だってさ、機転の良さなんて、あるわけないでしょ。心を無にして失敗事例の分析と改善点の洗い出しと実行、成功事例の分析とよりよくするためのお手本となる人を探し&まねっこ。
これを起きている間ずっとやってますから。疲れてるとできません。こんな分析、高熱が出ているとき、鼻が詰まって頭がぼんやりしてるときにできます?【そこそこの処理ができるコンピュータ】な私にできる?
無理ゲーでしょ。
※生理には個人差がある。モチロン生理そのものが感覚的にしんどい人もいる。私は幸いそこまでではないけれど、4週間のうち前半2週間は論理的思考や緻密な作業が向いているし、後半2週間は感情が活発に動くからセンチメンタルだったり些細なことに気付ける。それこそ観劇が最もしやすいのはこの時期だけだったりする。これが前半に見に行くと、舞台セットの仕組みとか、役者さんの出入りとか、別のところに視点が向いて話の内容が入らない。かといって、私の仕事=数学は後半期間にやり始めると穴ぼこが開いて直感的な議論になるし、前半期だと細かいところを補うことに神経を注ぐから話が進まない。→指導教官から呆れられて放置状態。
いつでもアンテナを切り替えられるほど便利じゃない&”ほどほどにやる”ことができない。そういった不器用さがあるということ。
ここまでが身体の問題。それに加えて、女性だからこそ求められること。
ジェンダー学が近い話になるけれど、女性ゆえに社会から求められることってあると思う。お化粧を暗黙的に求めること、おしゃれに気を使うこと。そこそこできることが求められて、あーうざい。うざいったらありゃしない。事前通告なしである日突然やってくる。
わたしはあくまで【そこそこの処理ができるコンピュータ】なのよ。0と1、オンとオフで表せる世界なら喜んでやるけれどね、「ややオフよりで作業」なんて知らんのよ。0と1を重ね合わせてできているんだから、部屋の電気をつけるときにボタン押す力を絶妙に弱める、そんなことしないでしょ。電気がつけばそれでいい。
だからこそ、ずっとずっと気分は不完全燃焼のまま。やり切ってしまうと、翌日は休みたいくらい身も心も使い切るからほんと苦手。
2.勉強ができるかどうか
発達障害の人は学歴が良いことが多い。これは半分正解で、半分不正解。
正解なのは、「勉強さえできているなら、大人はこちらにいい印象を持って接する」から。人とのかかわりがうまくいってなくても、「あいつは勉強できるから」枠に入ってしまえばクラスで浮いても生きていけるの。特に男子は愛嬌なんてなくても「真面目キャラ」でやっていけるから生き残りやすい。だからこそ、社会人になって浮きやすいリスクがある。【そこそこの処理ができるコンピュータ】には最も得意な仕事だ。
不正解なのは、「発達障害といえど、勉強できない人もいる」から。勉強にスペックを集中させるタイプじゃないから、そもそも他人から評価されにくい。スポーツができるタイプはストイックにできちゃう分評価されやすい。
勉強についていけなくて、言われたことをやるだけで手いっぱいの場合は本当にしんどい。応用的なことを理解するのに時間かかるし、そもそも概念的なことや、常識が理解できない場合は「なんでこんなこともできないの」状態。さすがにこのレベルだと子供のころから支援が必要。でも運悪く支援から外れると勉強嫌いが加速する。そうやって子供のころから社会に見放されている気分を味わって生きている。
最悪のケースは、社会の中で自分の居場所がない&猜疑心マックスで心労過多。引きこもってるほうがよっぽど幸せな状態。だって、人を信じられる経験ある?
3.家族は自分を受け入れているか?
サザエさんの家、ちびまる子ちゃんの家。どれも不満はあれどいいこともある家だ。あなたは、「こんな家、現実にはあるはずがない!」派?それとも、「うちの家でもあるある!」派?
「うちの家でもあるある!」派の場合、家族って暖かいイメージがあって。なにかあっても、家族に会って話をして、一緒の時間を過ごせば、悲しいことがっても乗り越えられるらしい。ちゃんと自分を受け入れてくれる、世界一安全な場所。
ということを本で読んだ。こちらの派閥の人だと言いたいことはちゃんと言うし、建設的に解決してるから不満もため込みにくいらしい。
いいなぁ。私は一度も体験したことない。
「こんな家、現実にはあるはずがない!」派の場合、家族って冷たくて緊張が走ってる。学校一怖い先生に怒られるときみたいな状態がデフォルト。
あったかい家族?いくら払ったら買えるんだろうね。そんなの、どんなに欲しくても手に入らなかったよ。物語の世界にしかなくて、ずっとそっちを見ていたいくらいだった。家にいても安らげない。
これのどこがwarm family?*1
家族が家族として機能していない「機能不全家族」や虐待まがいの劣悪な環境、親せきが遠方で頼れない、ヤングケアラーなど。このあたりに引っかかると生きていくのがもっとしんどい。
家族に発達障害の人がいるだけでも心労過多になる。親が発達障害で、自分はそこまでじゃなかったとしても、親がコントロールできないほど障害に振り回されていたり、ストレスのはけ口になっているなら、家に帰るのも嫌だろうな。特に女性は母親とのかかわりが近いことが多いから、気づくと母親の愚痴聞きが日常化しているなんてこともある。さっさと趣味に逃げなさい。そのほうが幸せよ。自立した関係性
私はまさにこのパターンで、小学生のころから成人した今になっても母親の日常の出来事からちょっとした愚痴まで全部聞かされる。母親本人の学習が進まないのだ。父親も。聞きたいと一言も言ってないのに一から十まで全部聞かされる身になれ。もちろん断ってもいいし、それが聞く側にできる自衛方法だ。
話し手の自衛方法は自分の話を聞いてくれる人がどんな表情してるか見てしゃべれ。目の前にいる人があまりにつまらなさそうでスマホまでいじっているならなおのことヤメレ。
そそっかしくても尊敬される女性のロールモデルは身近にない。伝記で出会えれば御の字。
頭が良くても空気が読めないだけで針の筵。
ただ私でいるだけなのに、両親の望む完璧な子にはなれなくて。
勉強ができても褒められることはなく、他人を助け続けても認められることはなく。むしろ当たり前な空気を醸し出され。
「ぶっちゃけ、家族より赤の他人のほうが優しくね?」と気がつく頃には成人してた。
さあ、問おう。
いったいこれのどこが生きやすい?優遇されている?
「女っていいよな、楽で。」
「障害持ちってだけで他人から優しくされて、いい身分だな」
って心の底で思ってないかしら。
「可哀想だけれど、どう助けていいかわからない」ならまだ救いがある。共生する方法を生み出せばいい。それが教育の名のもとに平等に享受できればいいんだから。ニューノーマルとして、日々常識は移り変わる。それでいい。
けれど、傷ついた当事者に碌に謝罪もなく、「これから共生して生きていきましょう」
なんてニコニコとして言われた日には、どんな気持ちになると思うかしら。
「てめえら勉強が足りてねえんだよ、こっちから願い下げだ」
と思われても仕方ないんじゃない?かつて無自覚に自分が傷つけたかもしれない相手に向かって、そんなことを言われて黙ってるやつはいないでしょ。
こんな感情を持って生きてる、ただの人間なんだけれどね。
あなたの隣にいるかもしれない人。
私って空気かしらね。いいや、実在する人間だ。
私は天才かな?いいえ、ただの生きた人間よ。
なら、動かなくてはね。ちょっとバリエーションのある人間で、敬意をもって接する対象であって侮蔑されていい存在じゃないんだけど。師匠。
追記2023/01/09
ちょっとタイトルが大きいけれど、当事者が抱えている苦しみってほかにもある。ここまで読んでくれた全ての人に敬意と感謝を。
あと、師匠は私にゆかりある人を指しているので、きっと私とリアルのお知り合いだったらこの記事最後まで読んでほしいと伝えてくれると助かる。
私が障害を語らないのは、障害の全貌が見えないうちから真偽不明なことを言いたくなかったのと、言って理解できそうにない人には言わないポリシーだから。自分の理想の世界に閉じこもっている人に、私のようなイレギュラーは怖く見えると思うから。あなたの理想のワルツに付き合って踊るのはもう飽きたの。それに踊り手はいつだって組む相手を変えられる、それが師匠の住む世界でしょう?
ちゃんと礼儀をもって質問していたなら。私は答える。それが私の誠意。
自分のイメージが正しいと思い込んで、本人の目の前で偏見をぶちまけて。それに対して謝罪の言葉もない。
「ただの勘違いでした~♪てへっ!」で済むわけないでしょ。侮辱もたいがいにしてくれ。
当事者としては、社会側が寛容になってくれることを願うよね。でもね、その恩恵にあやかれるときは、あなた以外の当事者が、無数の出来事に傷ついた後でできた恩恵だと思う。しかもその恩恵、生きているときに受けられるかわからないよ?死後かもよ?そんなばからしいことの片棒を担ぐ気なの?
だったら、自分のことを自分の力で、欲を言えばあなたを大切にしてくれる、尊重してくれる人の力を借りて
”主張してみなよ。どうしてほしいのか。どうされるのが嬉しいのか。”
感情的にならず、一つ一つ冷静に。感情はあっていいから込めすぎずに。
最初から完璧になんてならない。そんな自分に嫌気がさしてるなら大正解。より良いものにする、よい心がけがある証だから。ゆっくりでいい。一年かかっていい。ひと月で出来たらすごすぎるから。
そうやって、伝えることを続けていこう。
データを貯めるんじゃ。「どうされたいか」のデータを。
そうすれば、社会のほうが傾向と対策をとれるでしょ。歩み寄れるきっかけを生み出せる。
それと同時に、当事者会がもっと精力的に活動できるといいのだけれど。お顔を出したくなければ仮面でもつけちゃえ。「適応」の文字でも添えたらいいんじゃない?
と、長くなりそうなのでここまで。