Rin_Mikageのブログ

気ままに。思考は自由に。

リエゾン第三話 感想レポ 当事者からの視点

発達障害グレー当事者による感想レポ。見ながら書き上げるため、箇条書き。

 

序盤

・話したいことがたくさんあって止まらないんだな。周りの人が困ってても気にせず続けられる。お母さんの「すみません」は今日もジンとくる。疲弊しているのがよくわかる。

・お父さんの反応がどこか他人事で、一緒に育児期間を戦い抜く戦友と感じられないことが悲しいのだろうか。『私ばっかり気を回して疲れ果てている』そんな心境が聞こえてきそうなこのシーン。お母さんが抱える孤独を映し出している。

 

発達障害と診断されないからこそ、たくさん悩まれてきたのだろうな。グレーゾーンの子どもも大人も共通してつらいのは、”確定診断がないために普通の生活ができるかもしれない幻想”を抱えていくほかないということ。どっちとも区別がつかないからこそ、このはざまで苦しむことは多い。「あなたは障害者ですから、障害者の世界で生きてください」と言われたほうが制度上楽な場面はまだ残っているからこそ、しんどい。確定しない苦しみは白黒はっきりさせたいASDの人には苦しい。

 

・療育のシーンも監修が入っているのだろうか。私は受けたことないからわからない。大人用の療育が切実に欲しい。SSTソーシャルスキルレーニング)が代わりになるのかな。

家で実践しているのはすごいな。この努力を親が積み続けていること、ちゃんと社会側も理解をしていかないとな。不用意に心を殺せるぞ。

 

序盤で気になったのは、

①お母さんが、「普通を求めている気持ちが大きくなっている」

療育練習中に中断することは、そんなに怒ることなのか?逆上がりの練習だって時間かかるでしょうに。なんだか、お母さんの心を鎮めるために療育が利用されてないか?

②お父さんが、何気なく言っている言葉がお母さんの琴線にガンガン触れている。お母さんの気持ちを理解できていないのでは?

 

中盤20分

・ストレートにモノ言っても子供なので許されそう。

・ひとりで外出たのか。。お母さん方誰も気づかないのか。。私もやりそうだ。。

・佐山先生の視線のつきかたが、まじその通り。「まじでどういうこと?」なのよね。

それでいて、ルールはしっかり守る。だからこそ、たくさん聞きたい志保先生からすれば、困っちゃう。聞かなかったのはOK。

・お兄ちゃんたちが一緒に遊んでくれなかったのは、「知らない子」で「自分たちのしている空間を邪魔されたから」?

多分小学生だよな。小学生の低学年って知らない子と一緒に遊ばないんだ?まあ、邪魔されたら子供でも嫌がると思うが。

このシーンだと、「希ちゃんが相手の知らないルールを押し付けている」ともとれるしな。。これはやきもきする。

 

・佐山先生の回想シーン

おばさんがやった、佐山先生の視点を切り替えさせる伝え方。うまい。名前を呼べば、ちゃんと伝わる。佐山先生は言われたその時にはわからずとも、きっと時間を変えて理解することだってあるよな。

 

・希ちゃん濡れて帰ってきたか。近所の人が見つけてくれたのはナイスすぎる。

 

<気になるポイント>

・お母さん、ずっとお母さんの視点でしゃべってて希ちゃんの視点まで降りてこれていない気がするんだけど、気のせい?ずっとしんどいからこそ、余裕もなくなってる。

 

終盤

・「いじめや不登校から守れる方法は、まだいろいろある」。多分、この言葉に救われた人、いそう。

・教育の現場で子どもと向き合っているひとたちからすると、「環境を変えたほうが、この子のためになりそうだ」と思える出来事に出くわすことあるんだろうな。でも、親側が普通の檻に囚われていると、気づけないことが多々ある。こうしたことが繰り返されることで、子どもはどんどん傷ついていくのに。

・佐山先生の最後の台詞

障害と普通ってこんなにも棲み分けていくものだっただろうかと、やはり思う。

当たり前も普通も、人間がその場で作ったものだろうに勝手にとらわれている。思考停止して吐かれるそれは、一体何の意味がある?

 

それこそ「いじめられませんように」って願いは当初疑問だった。これは不用意に傷つく経験を減らせますようにってことでいいんだよな?ちょっとここは漠然としていて、頭にはてなが浮かんだ。

明確に違うと認識できる相手には、支えようとかって発想になるのに、一目見ただけでは違うと認識できない相手にはアイデアすら浮かばないんだな。「自分と相手がほぼ同じ」であることを想定した関わり方がまだ残っている証。これは「みんなそれぞれの立場や環境があるから、そこを認めたうえで今の状況を解決する方法を一緒に模索しよう」って発想がないんだな。めんどくさいだろうし。

 

この【めんどくさい】のツケ、今の世代で払っておこうぜ。

国債と一緒だ。つけるだけ増えるぞ。やれる範囲で減らしていきたい。私の10年後の代から療育を受けた子たちが大人になって上がってくるんだぞ。あいつらにぬくぬくさせてやりたいんだ。こんな厳しい北風を受けるのは今の20代で最後にしたいんだ。

当事者も少しずつ変わっていかなければならないけれどさ、それは普通の型に押し込んで変えるんじゃないと思う。私たちが私たちとして生きていくために変わる程度でいい。

自分たちの生活をより良いものにするための行動が、この先も続く。そんな程度でいいんじゃないかな。きっと10年後には療育をがっちり受けた代が声をあげてくれるでしょ。